人生の10000時間を何に使うか
人生は一度きりで、人間にとって究極の希少資源は時間だ、という前提から出発すると、何に、どう時間を使って働くのかは、かなり自明に重要になる。豊かになるほど、他人の時間を買ってこちらの言う通りに働かせられるようになる。だから、コードを書くことや A.I. で僕が心底気に入っているのは、疲れ知らずの機械を、感情の面倒を見ずにこちらの指示どおり動かせるところだ。最高じゃないか。A.I. の時代に、ストルパー=サミュエルソン定理が労働と資本にどう現れるのかも気になっているけれど、それはまた今度考えるネタにしておく。
Le Wagon のデータサイエンス・ブートキャンプを終え、いま MITx MicroMasters の Data, Economics, and Development Policy に取り組んでいるうちに、自分の人生の少なくとも10000時間は、経済学とコンピュテーションの交差点に使いたいのだとはっきりしてきた。知的には、どちらもたまらなく面白い。実務的に言えば、世界を学ぶ目的は世界を変えることにある。できれば勘や気分ではなく、エビデンスと、相当量の配管作業と、ランダム化比較試験(RCTs)を通じて。僕が気にしているのは、どの領域に適用するかというより、専門知と方法論のほうだ。結局のところ、経済学とコンピュテーションの原理や応用は、アートにも、差別、移民、貿易、金融、気候変動にも、そして関心に値するほとんどあらゆる人間の営みにも同じように効く。道具も技術もすでにここにある。未来はもう来ている。ただ、均等には行き渡っていないだけだ。
幸福へのリターンを測る
そういう意味で、何年も前に『貧乏人の経済学』を読んで以来、RCTs の考え方と実践がここまで進んでいたことにはうれしい驚きがある。インパクトを評価するとき、単純な事前・事後比較をして、みんなで自分たちの背中を叩き、はい終了、とするのではなく、データとエビデンスの言葉で話すようになれば、世界はずっとましな場所になると思う。社会プログラムを Return on Happiness(RoH)で測り、ベンチマークするようになったら、世界はどう見えるのだろう。主観的ウェルビーイングがすでに「包括的」なもの、つまり「誰かの全体的なウェルビーイングを集約的に評価する方法」として受け入れられているなら、この考えをもう少し先まで伸ばしてみてもいいのではないか。
I, A.I. 爱
この投稿と、その後に続く探索の目的は、経済学と計算、とりわけ A.I. を、自分の関心のある領域に正面から持ち込むことだ。GLAM 機関、企業、ゲームとエンターテインメント、気候とサステナビリティ、インパクト、政府、あなたと僕、そして僕らの孫たち。そういう問題意識から、MuseumNext Digital Summit 2023 で、機械を使ってコレクションを見て、探すことについて発表した。コンテンツの量は気が遠くなるほど多い。ならば、これまでとは違う見方をし、そうでなければ手の届かなかったかもしれないコンテンツを検索し、発見する手助けとして、A.I. 以上にうってつけの道具があるだろうか。
ARTificially Intelligent:機械でコレクションを見て、検索する
「上司はソーシャルメディアも理解できない。どうすれば A.I. に乗り気にさせられるのか?」
ソーシャルメディアを理解するのにも苦労している上司に、どうやって A.I. を受け入れてもらうのか、という質問が出た。僕にとって面白い問いだった。というのも、僕自身も、いわば民間企業の競争圧力に「触れられていない」部門で、どうすれば導入が進むのかを考えていたからだ。ある意味、民間セクターで A.I. について議論を組み立てる必要すらない気がする。利益の追求それ自体が、導入への十分なインセンティブになるからだ。では、費用も能力も反事実の想定も、最初のレンガを置く前から大きく口を開けた穴になっているような領域ではどうか。
ある世界では美術館が A.I. を導入し、別の世界では導入しない。どちらの世界でも、基本条件として市場競争は効きにくい。とくに、国家が何らかの独占を認めているならなおさらだ。公共機関そのものが悪いわけではない。むしろ、市場の見えざる手が届かない場所があるからこそ、僕らには公共機関が必要なのだ。だから僕の反射的な反応はほとんど、「こういう状況では上司をクビにして、別の場所へ行くしかないのでは」というものになる。問題の核心は、規模のある組織では、変化を起こすために必要な正当性と権限を得るうえで、トップダウンのリーダーシップがしばしば絶対に欠かせないことだ。とはいえ、公共機関が取り組んでいる課題の重要性と緊急性を考えると、この答えはどうにも満足しにくい。難民をどう統合するか、創造性をどう促すか、偽情報にどう対処するか、貿易の利益をどう公平に行き渡らせるか、といった話の成否を、たった一人の人物に丸ごと預けるのは、かなりしょぼい。
だから僕は、市場の外にある活動や組織の成果を RoH で測り、比較可能にすることで、そこに競争の力学を持ち込むという発想に惹かれている。A.I. を導入する処置群の組織があり、導入しない対照群がある。重要な指標で見て、1ドルあたりの価値として処置群が有意に良い結果を出すなら、その時点で僕らにはわかる。税金と時間をどこへ流すべきかがわかる。
多くの人はその発想にたじろぐだろう。でも、なぜだめなのか。僕らは Gross Domestic Product(GDP)という尺度を作った。どれだけの産出を生み、それがどれだけ変化しているのかすらわからなければ、大恐慌期の New York の街路にパンの配給を待つ列が曲がりくねっている横で、暗闇に向かって当てずっぽうを撃っているようなものだからだ。これは、試す価値のある気候危機への一つの応答にすぎないのかもしれない。人間のウェルビーイングを予測し、最大化できるデータ点の見当をつけるうえで、A.I. は、複雑性、データ、ノイズ、下水のような情報の中を選り分けるのに特に価値を持つのかもしれない。これは因果性について何かを主張するものでも、予測因子それ自体に価値判断を下すものでもない。むしろ、わかってくることの多くは、面白いとしてもごくわずか、という程度に終わるかもしれない。
というわけで、これは限られた文化的人工物群に置く、僕の最初の一個のレンガだ。😎 次は、経験的な営みとしての知能について、A.I. 版「Stefanie Sun」にベトナム語で歌わせる話について、そして A.I. の時代における労働と資本の関係について、もう少し考えを膨らませるつもりだ。
初出は PubPub の erniesg.pubpub.org/pub/hnn0p7d9。